忙しい一日になりそうです。

まいど!

あすは新年 元旦です。

みなさん、神社にお参りに行くのでは、ないですか。

新年の祈願は、神社で、しかも有名な神社にはごぞってお参りに行くのですね。

大洪水です。神様もだれがきたのか覚えていられないくらいです。

御賽銭もざくざく、景気のいい人は1万円のお賽銭を投げ込むのですから、

神社の方からみれば、お正月三が日は 「まいど!おおきに!」ですね。

お賽銭の多い年は、給料が上がるのでしょうかね。

お賽銭は、神様にわたるのではなく、神社に入るのをみなさんご存じでしょうに!!

それにつけて、地元の氏神様は、寂しいもんですね。

マー多少は いつもより多めにお正月はお賽銭が入るでしょうが…

私たち日本人は、面白いもので神社と仏教を併用しているのですね。

併用というと誤解されるので融合とでも言いましょうか、

参考となる記事はいっぱいあるのですが、わかりやすい記事をご紹介します。

 

 

神道と仏教――日本に混在する2つの宗教

-by にっぽんの壷

 

神仏習合

 

日本の国ができる前まで、全国の人々が信じるような統一された神も宗教も存在しませんでした。人々は身の回りで自然現象を起こす力や、未知の力を、神によ るものとして崇めていたのです。古代の日本列島は、未開発の場所がほとんどだったので、人々にとっては未踏で未知な世界が圧倒的に多かったのです。また、 夜になれば真っ暗で、闇の先で何が起きているのか、全くわかりませんでした。もちろん、科学知識も少なく、ほとんどの自然現象の原因を理解していませんで した。

樹齢2000年

 

 

 

 

古 代の人々は、雨を降らす神、太陽を輝かせる神、月を光らせる神など信じていたのです。さらに、火の神、水の神、風の神、山の神など、様々な神を信じていま した。これらの神のことを「やおよろずのかみ」(yaoyorozuno-kami)と言います。「やおよろず」とは漢字で「八百万」と書きます。それほ どたくさんの神様がいるという意味なのです。それはどこにでも神がいるということです。古代の日本人は、それら身近にいる様々な神を信じ、畏れ、そして崇 めていたのです。

古代の日本では、人々は小さな集落に住んでいました。それらの集落は争いと融合を繰り返しながら、徐々に大きくなっていきました。そして各地に「ごうぞく」(gouzoku 豪族)と呼ばれる勢力が形成され、地域を支配するようになりました。

明治神宮そ れら「ごうぞく」たちにとって、どこにでも神がいることは、大規模な地域開発の邪魔になるようになりました。開発のために山に道を造ろうとしても、人々は 「山の神が怒る」と畏れて、工事が捗らなかったからです。そこで、開発に伴って神が祟らないように、神の怒りを静めるための神社を造りました。それが日本 中にできました。

その後、西暦701年に「だいほうりつりょう」(大宝律令)が制定され、天皇を元首とする日本国が成立します。その最初の日本政府が712年にまとめた 「こじき《(古事記)、720年にまとめた「にほんしょき」(日本書紀)という歴史書の中には、それまでに日本に存在していた有力な神たちの逸話が記載さ れています。そして天皇は、それらの神々の子孫であり、日本全国に奉られている神の頂点にあることが説明されています。

日本国の成立とともに、日本全国にいる八百万の神の頂点に天皇がいるという「しんとう」(shinto 神道)が成立したのです。

 

明治神宮

神道の特徴の一つとして、特に教義が無いことがあります。八百万の神を信じ、畏れて、崇拝するだけなのです。そして、神への崇拝を示すための伝統的な儀式や祭りがあるだけでした。

ただし、神道では、全国の神社を統一し、神主と巫女が住み込んで管理するようになりました。神社は、天から神が降臨する神聖な場所として、整備が強化されたのです。

仏教の影響の拡大

 

東大寺こ の神道と日本国にとって、重大な問題が発生しました。それは、中国から伝来した仏教の拡大です。仏教が正式に日本に伝えられたのは西暦552年とされてい ます。その後、神道とは異なる宗教として考えられ、神道と並列して存在していました。ところが、仏教は神道とは違って多くの教義があり、宗教として信者が 増えていきました。そこで日本政府は、仏教を拒絶するのではなく、受け入れることにしました。701年に大宝律令が制定する約100年前の604年に制定 された17条憲法の中で既に「仏」「法」「僧」を敬うように定めました。

その後、仏教は日本社会により深く、広く浸透して行き、仏教の教義を知った地方の豪族の中には、仏教を信奉して神道を軽視する者も出てきました。神道の威 厳が低下し、国家統制が弱まることを危惧した日本政府は、仏教と神道の棲み分けを図りました。それが、「ほんちすいじゃく」(本地垂迹)による、「しんぶ つしゅうごう」(神仏習合)です。

 

生きている間は神道、死んだら仏教

 

東大寺ุ 「本地垂迹」とは、天国にいる仏が、現世に人間の形をして降臨してくるという考えです。そして天皇は、現世に降臨した仏であると説明しました。すなわち、 人々が生きている「現世」は、天皇を頂点とする神道が見守っている。そして、人々が死んでから行く「あの世」では、仏が君臨しているということです。これ を「しんぶつしゅうごう」(shinbutsusyuugou 神仏習合)と言います。神道と仏教の融合という意味です。この考え方は平安時代(794―1185年)に最も盛んになり、神社の中に仏教施設が造られたり しました。

繰り返しになりますが、日本の神道は現世だけを担当し、人々の日常生活を見守っています。ですから、神社では葬式をしませんし、墓もありません。一方、仏 教は死後の世界を支配しているのです。天皇を頂点とする日本の神々も、普通の人間と同じく、死んだら天国で仏のお世話になるのです。ですから寺院には墓が あり、死者の供養を行っているのです。

神仏習合の考えは、この後、1868年に日本の市民革命である「明治維新」が起こるまで政府が採用してきました。しかし、明治維新によって国家主義が強まると、日本独自の宗教である神道と、外来宗教の仏教が分離されました。神道だけが、日本の宗教として選ばれたのです。

東大寺し かし、それまでの1000年以上もの間、神道と仏教は融合し、崇拝されてきました。日本人の生活や文化の中に2つの宗教が共存してきたのです。いくら政府 が2つの宗教の分離を決めても、人々にとって、それを完全に分離することはできません。このため、多くの日本国民は、現世の最も大切な行事である新年のお 祝いには神社を参拝しますが、死後の世界のための葬式は仏教式に行うのです。

ちょっとながいでしたが、こんな形で神社と仏教が使い分けているのです。

あすは 元旦、仏壇を拝み、墓まいりしてから、神社に祈願しに行きましょう。

おっと、氏神様を忘れずに!!

忙しい一日になりそうです。

 

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